シェリー、ミントンのカップ

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今回仕入れたカップです、左の写真は左がシェリー(Shelly)、右がミントン(Minton)。真ん中の写真は共にミントンです。時代は1900年前後です。個人的には私はイギリスの陶磁器メーカーではシェリー、ミントンが好きです。二百年くらい前の物ならダービーとウエッジウッドが好きですね。今回もカップを二十個近く仕入れました。ご興味おありの方はご来店下さい。
先日富山に行きました。富山は地元国立大学も街中にあり、路面電車も街を走っています。金沢も昔は路面電車がありましたが今は走っていません。県庁舎も郊外に移りましたし、国立の金沢大学も医学部以外は郊外の山の中にあります。新幹線が来てからは地元の人たちが贔屓にして通っていた街中の小さなお店がだんだんと加速的に減っています。地元デパートのデパ地下にあった能登の魚の干物などを売っていたお店もデパートの新幹線開業に合わせた改装でなくなり、その後真向かいの市場で小さく営業していましたがやがて閉店しました。親切で飾らないおばさんの下町風の接客が好きで通っていたのでとても残念です。こうやって生活感のあるいいお店が今の金沢からは少しずつ確実に消えていき、代わりにお洒落なお店と高級ブランド店だけが増えているようです(金沢の人は分かり易いブランドが大好きです)。そう、生活の匂いが確実になくなっていて、如何にもと言う感じの観光地に成り果てています。残念ながら「金沢らしさ」と言うものが未だあるとしても、それは日々薄まっていっています。僕自身個人的に行きたいお店は街中には余りありません。勿論新幹線が来る前もその後も変わらずマイペースでされているいいお店はあります(寺町や石引の高台に行くとまだ少し前の昭和の金沢の空気が感じられますよ!)。でもなんと言いますか、最近の街中は歩いていても何処か落ち着きませんね、如何なるスペースもお金を産む空間に変えてしまおうと言う意図が至るところに透けて見えます(東山がいい例です)。
お洒落なだけで没個性な街はつまらないですし、今の金沢の街はそうなっていると思います。街を歩いていても地元の人の生活や顔が見え難いですね。それでか、最近僕の「金沢出たい病」が復活して来ています。イギリスに毎年二ヶ月はいるのでこの病気も何とか治まっていましたが、また最近復活の兆しが見られます。
金沢はのんびり歩けてしっとり風情があるのが良さだったのではないでしょうか。それが功利的な街づくりで乾いてしまったらもう誰も来ませんよ、と私は切に思います。何でもそうですが、作り上げるときは少しずつでも壊れるときは一瞬のように速いものです。

指輪色々

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指輪を三点、左は9金に石はラピスラズリーでリングには細かい彫りが施されています。1900年頃の物です。大きさは14号位、男性でも女性でもはめられる感じです。真ん中は18金にエメラルドとダイヤ、1920年頃の物、大きさは11号位。右は9金にトパーズとガーネット、1960年頃、変わったデザインです。大きさは11号位。ご興味おありの方はご来店下さい。
今日新聞をテーブルに拡げて読んでいたら紙面の下のほうに「怒らないこつ」と言う本の広告がありました。どうやら版を重ねて売れている本のようです。確かにカッとなって怒るのは良くないですし、僕もその感情は日々抑えるように心掛けてはいます。
が、ですよ、今の日本人は「怒り(いかり)」を余りにも忘れてないでしょうか。周りで日々起きていること、自分の身に起きていることを眺める迄もなく、怒りの対象は沢山あります。杜撰(ずさん)な政治、レベルの低い政治家たち、社会的弱者、少数派に対する酷い対応、と言うか殆ど無視、他人に対する無関心、拝金主義、原発問題、沖縄の人々に対する無関心、まあ挙げればおよそ切りがありません。社会でも個人でも、悪いことをしても逃げれば勝ち、お金と地位があればいい。物を考える、他者に思いを馳せる、自分の人生の来し方行く末を冷静に眺める、そんなことはもう時代遅れのことだと言わんばかりの高速で日々目まぐるしく変化しています。
僕自身の生活の原動力の一つはこんな世の中に対する怒りです。若い子がたまに僕のことを、塩井さんロックですね、と言ってからかいます。それは僕が何時も心の何処かで(この世の中に)怒っているから、彼らには僕がロックに見えるのでしょう。今のこの日本に生きていて怒りの感情を持たない人がいたらそれこそ、どうにかしています。それはもう奴隷と同じことです。昔のフランスの哲学書の名前を借りれば、それこそ「自発的隷従(論)」の状態な訳です。自分から進んで奴隷になる、自主の放棄です。いや、その様な状態の者を人間(ヒューマン)と呼べるかどうかも怪しいと思います。

中世のナイフ

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今回イギリスで仕入れた物です。15世紀のナイフ(長さ約20cm)、ロンドンのテームズ河から発掘された物、持ち手は一つは真鍮、もう一つは恐らく革製です。まだこの時代はフォークが左程普及していなかったので、ナイフでお皿の上の物を切り、そのまま指で摘んで食べていたかもしれません。特にイギリスではフォークの普及は遅いです、一般的になるのは18世紀からです。今から五百年以上前の時代では指から直接口へと食べ物を運ぶのはどうやらそんなに野蛮なことではなかったようです。
夜中にこの文章を書きながら聴いているのはエルガーのチェロ協奏曲、チェロはジャクリーヌ・ヂュ・プレ。この曲を初めて聴いたのはおよそ三十年前、アイルランドで小さなお城(正確に言うとマナー・ハウス、Manor Houseです)の宿に泊まったときにリビングルームの脇にあるソファーで寛いでいると暖炉のある隣の部屋のステレオからこの曲が聴こえて来て、何と良い曲なんだろうと思った記憶があります。その時は音楽が聴こえて来る部屋の素晴らしさもあって良い曲だなと思いましたが、後から冷静に聴けばロマンチックで分かり易い一般受けのする曲。たまに聴くにはいいですね(キース・ジャレットの「ケルン・コンサート」と同じで、一年に一二回聴くには良いがそれ以上聴くと飽きる)。先日イギリスのチャリティ・ショップでこのCDを見つけ安かったので買った次第です。
今度当店「フェルメール」のオリジナルトートバッグを作る予定です。先日ロンドンで地下鉄に乗っていたときに周りに居た人のお洒落なトートバッグを見て、そうだトートを作ろう、と思い立った次第。今年中には出来ると思います。また出来たらお知らせします。使いやすいサイズのシンプルな物を作ります(ロンドンのコヴェント・ガーデンにMonmouthと言う有名なコーヒーショップがあってそこのトートがシンプルで良いのです、大分前に買って今も使ってますが今はもう売っていませんね。残念)。
さてフェルメールは今回仕入れたグラスと陶磁器をやっと出し終えたので、これからアクセサリーや小物などを出して行きます。少しずつ店を片付けて人並みのお店に近づけたいと思います(でないと、この散らかった状態だと知らない人は恐れをなして誰も入って来ない。これが長く続くと不味いですね)。
ではみなさん、お暇なときにお越し下さいませ!

マリー・ローランサン

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今回のイギリス仕入れで仕入れた物です。マリー・ローランサンの銅版画。イギリスの某有名オークションハウスから出たものです。ローランサンのサインも入ってますが、これは工房の誰かのサインと考えるほうが妥当でしょう。18世紀の銅版画を仕入れていたときに目に留まり仕入れた次第です。版画の大きさは大体30センチ四方です。
何年か前にボナールの画集を二册、油絵と版画それぞれにイギリスで買いました。それ以来ボナールの頽廃美の魅力にたいそう惹き付けられています。ローランサンがボナールの影響を受けているかどうかはお恥ずかしながら知りませんが、ボートに乗る三人の少女を描いたこの銅版画に少し似たような匂いを感じ取り買って来た次第です。
先日毎日新聞を読んでいたら画家の野見山暁時治さんが何処かで講演をしたという記事があり、彼はセザンヌやゴッホなどの絵をただじっとひたすらに観ることの大切さを話していたそうです。最近は、物と対峙してただひたすらに観るなんて本当に流行りませんからね、これも新聞記事でしたか、ロダンの彫刻を参加者にスマホで撮らせるという美術館の企画について書かれていたものを読んだ記憶があります。
画家のドガがあるお金持ちの家に招かれ、当時まだ珍しかった電話をそこの主人が電話の仕組みについて自慢げに話したところ、皮肉屋のドガが、つまりあなたはその機械の下僕になると言う訳ですな、と言ったという話し。これも野見山さんが半世紀程前に書かれたエッセーで読みました。
まあ今の私たちはドガに倣えば下僕さながらと言ったところでしょうか。

小さな水彩画

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イギリスの小さな水彩画 (額のサイズ、270mmx220mm) です。恐らく百年くらい前のもの、何年か前に買っていたのですが、額に入ってなかったので最近額を作ってもらいました。絵は額に入れてないと売れ難いですね。持って帰って飾るだけ、という状態にしておかないと中々売れません。個人的にはとても好きな絵ですね。イギリスの湖水地方か何処かの風景でしょうか。
前にも話したと思いますが、昔沖縄に住んでました。琉球大学(英文学科)という所に入学したものの大学の授業に全く興味が持てず大学にはサークル棟と学食と図書館の地下書庫を除いて殆ど行きませんでした。もちろん、中退です。二年生の前期を終わったところで取得単位が足りず除籍になりました。その時にすることもなく那覇の安里にある「うりずん」という琉球料理の居酒屋でバイトをしました。そこの経営者というか店の主は土屋さんと言い、当時から名物店主で彼を慕って全国から様々な有名無名の人たちが「うりずん」を訪れていました。大学をクビになり、まあその土屋さんに拾ってもらった訳です。
大学で「海外研究クラブ」というサークルに入ってました。元々は沖縄の移民を研究するクラブだったのが僕が入った頃はかなり軟化していてブラジルやアルゼンチンの日系の留学生と夏にもなると八重山諸島に行き泡盛飲んでサンバを朝まで踊るのがサークルの主な活動(?)という状態。何時の頃からか「うりずん」の土屋さんがそのサークルの名誉顧問みたいな存在になっていて、僕が部長をしていた頃もたまに土屋さんから電話が掛かって来て、塩井(僕の名前)、今日暇だったらみんなでおいで、と言うのです。留学生も含めみんなで「うりずん」に到着すると、恵比寿顔の土屋さんがニコニコしながら二階の座敷に上がるように僕たちを促します。少なくとも十五人位は居たと思いますが、僕たちが座敷に座り程なく次から次へと豪勢な琉球料理と泡盛が運ばれてきます。それをみんなでお腹いっぱい食べさせて貰い満足すると下に降りて行きます。土屋さんが僕たちの満たされた顔を見ながら、お腹いっぱい食べたか、とか何とか言いながら何時もの笑顔で何度も頷きながらぼくらを送り出してくれるのです。
そうなんです。タダメシをタラフク食べさせて貰っていたのです。大勢で押し掛け座敷を陣取り、さして何も考えずに、恰も当然の権利でもあるかの如く感謝もせず。若いとは恐ろしいものです。当時の土屋さんは四十前半、僕たちには随分と大人に見えましたが今のぼくよりも一回りくらい年下ですね。恐らく彼には沖縄が貧しかった時代に北米や南米に移民して苦労された人たちに対する強い思いがあり、それが留学生や僕たちを店に呼んで食べさせる、という行為に繋がっていたのではないかと思います。
本当に懐の広い人でした土屋さんは。実は数年前に七十過ぎで亡くなられたのです。ある日北陸中日新聞の「偲ぶ」という著名人の死亡記事のページを何となく開くとそこに土屋さんのやさしいお顔があったのです。本当にショックで。もう一度お会いしたかったので悔しくて悔しくて。これを書いてる今でも悔しく悲しいです。
お店に居ても殆ど仕事らしいことはせずに何時もお客さんと一緒に座って泡盛を飲んでいる。恵比寿さまのような顔で長く伸びた髭を触りながら笑って頷いている。そして時々こっちをじっと見透かしたように見ながら一言二言何か言うんです。あんなに優しくて恐い、恐くて優しい人は後にも先にも彼だけです。僕はもう一度だけ土屋さんに会って、あの深く鋭い眼差しで優しく頷きながら僕の眼を見て欲しかった。彼の懐をそうやって感じたかった、です。本当に至極残念です。会いたいです土屋さんに。