ローマのモザイクブローチ

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イタリア、ローマのモザイクブローチです、1920年頃。去年の秋に仕入れた物で、何時も行くアンティークの市に行ったら、モザイクブローチを沢山持っている女性がいて、イギリス人でしたが今はスペインに住んでいてたまたま帰省中で市に出店していました。最近はモザイクブローチの可愛いのを見つけるのが割と大変なのでラッキーでした。僕はイギリスに二十年以上仕入れで通っていて九月に行くのは初めてだったので、僕の渡英のタイミングと彼女の帰国のタイミングが偶然にも一致してこのブローチを仕入れられた訳です。本当に出会いとはタイミングのことですね、タイミングがずれれば出会いませんし、それを逃したことすらも分からない訳で、人でも物でもタイミング次第で何かを必ず逃しながら毎日生きているんですね。
僕は最近思うことの一つにこう言うのがあります。強い思いは「もの」を引き寄せる、何かを求めて長い時間を思い悩んだりしてあれこれと模索しながら探していると、その思いが蓄積して力となりその磁力が自分が恐らく探していたであろうあるものを無意識に引き寄せてくれる。そんなことが人生には本当にたまにあるんだなと最近思いました。今は話せませんが、そんなことが少し前に自分にあって、思い悩む時間と言うのも大切なんだなと思ったのです。手探りで模索する時間の大切さを実感したこの二月でした。

1802年製のミニスプーン(その2)

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前回の続きです。このスプーンの用途が今一つはっきりしないのは、もしこれがソルト・スプーン(塩用)ならば先の部分がもっと丸い形をしていますし、もっと後の時代のスプーンでこれよりも大きいものだとグレープフルーツを食べるための物が先が尖っていたりするのですが、それでもない。と言うことでよく分からないのですこのスプーンの用途は。(右の写真の大きなスプーンがこの時代のティー・スプーンです。比較のために並べました)
前回紹介した藤本和子さんの本『塩を食う女たち』の最初のほうにこんな文があります。とても良いので書き抜いてみます。「苦難の中に人間らしさを失わずに行きのびるには、持続する意思がなければならない」(『生きのびることの意味』より抜粋)。
何でもそうですが、意思、強い気持ちを持ち続けるのは難しいですね。ある日は気持ちがあっても何日かするとその気持ちは薄れていき何となく流されるように日々過ごしてしまう。強い気持ちを持続させるのは大変なことです。僕思うんですが、最近みんなスマホを弄りっぱなしと言う人を沢山見掛けますがあれはある種の逃避、現実逃避ですね。人生、現実から逃げてるんだと思います。彼らも目の前の人生が面白くないと薄々思っていてそこから逃避してるんだと思います。
話しは変わるように聞こえるかもしれませんが、眼力(めじから)と言う言葉がありますね。眼力のある人、とかよくそんな使い方をしますが、最近そんな人を見掛けなくなりました。街を行く人みんなが眼力がない人ばかりで、眼が合った瞬間ドキッとする人なんて余り見ません。街を歩いていても「いい顔」の人を余り見掛けなくなりましたね、何をする訳でもないけど、ちょっと振り返りたくなるような顔、そんな顔が少ないです。残念です。
顔と言えば、ロンドンの本屋で見たペンギン・ブックスのトルストイの本の表紙を飾っていた晩年のトルストイの顔が素晴らしかったです。

1802年製のミニスプーン(その1)

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1802年ロンドン製のシルバースプーン、長さが9,3cmととても小さいのです。先端が尖っていて所謂オールド・イングリッシュと言われる形のスプーン。それでこのサイズの物のセットはとても珍しいです。何に使ったのか、食事のときに各自にグラスの塩入れの容器があり、そのスプーンとして使ったのかもしれませんがよく分かりません。今だったらちょっと珍味や薬味を取ったりするのに使えるでしょうか。
先日街中の本屋で『塩を食う女たち』(岩波現代新書)という本を買いました。著者は藤本和子さん。この名前を聞いて聞き覚えのある方はリチャード・ブローティガンのファンですね。彼女はブローティガンの代表作を翻訳した方で彼自身とも交流がありました。この本の副題が「聞書・北米の黒人女性」となっているように、これは70年代に彼女がアメリカ南部に住む黒人女性たちを訪ねて話しを聞いたその記録です。最初の30ページ近くが「行きのびることの意味」というタイトルの彼女自身の文章で、僕はそこから読み始めたのですが、余りにも心に響いてくる素晴らしい文章で、数日前の夜に読んでいたのですが、余りに素晴らしくて僕は落ち込んでしまい、その夜は気分の晴れないまま過ごしました。自分が見ようとしていないものを突きつけてくるような内容で読んでいるとどんどんと落ちていったのです。
自分の仕事に誠実であるとは、その仕事や地位、立場等が孕む矛盾とどれだけしっかりと向き合えるか、そのことに尽きるような気がします。そんなことをその晩はふと考えていました。どんな仕事にもどんなにきれいごとに見える仕事にも必ず矛盾はあるわけで、その矛盾はあり続けるにしてもそれをしっかり見詰めて、矛盾を抱えながらも自分に何が出来るのかを考える考え続ける。それが大事だと思います。
その夜はそんなことをノートに書き留めた記憶があります。

ローマン・リングを磨くのは大変

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先日の昼過ぎ、着物姿の若い女性六人がお店に入って来ました。アンティークを見ると言う訳でもない感じでそれぞれにショーケースの前に立ってお喋りが始まります。背の高い声の大きな女の子が占って貰った占い師の話しをし始めたようで、当店に並ぶ沢山のグラスを前に大声で隣りの子に語ります。
何か、、グラス集める人って、その(占い師の)人が言ってたんやけど、嘘ついてるというか、自分を偽って生きてるから淀んでるというか、汚れてるらしいんよ。だからグラスを集めるんやって、、。
店主の僕に対する当てつけの訳もなく、僕のことなど全く気にするふうでもなく大きな声でそう言ってたのです、グラスを集める人は自分を偽って生きている、だから淀んでいる、と占い師が言っていた、と。そうすると、この僕、沢山のグラスを持っている僕は、とても自分を偽りながら生きていて、とても淀んだ人間ということになる。その話しをしていた女性はそれを聞いている僕の気持ちに対する想像力を全く持ち合わせはいないようで、最後まであっけらかんとしてそのままお店を後にして去って行ったのでした。
僕は余りにもバカげた占い師の話しに怒るには到底遠い気分で、ただ呆れて彼女たちの着物姿を見送るばかりでした。歳の頃二十代中頃に見えましたが、こんな人たちもいるんだなと、ちょっとした驚きの体験でした。
僕は年齢に関係なく少人数で来てくれる人が好きです。群れない人が好きですね。昨今老人でも群れる人がいますから。高校生とかで一人で入って来る人を見ると(まあ中々いませんが)、もうそれだけでとても優しくしたい気分になります。多分十代で僕の店のような変なところに入って来るのは勇気がいると思うんですよ。だからその度胸を讃えたい気分になるのです。
昔、16、7才の女子高校生がパイプを始めたい、と店に来たことがありました。一人で。僕は、大学生になったらおいで、と言ってパイプに少し触らせて返し、その数年後に彼女が今度は大学生になってパイプを買いに来た。なんてことも懐かしい良い想い出ですね。
写真はローマ時代の指輪、鈍い光を蘇らせようと磨き始めたら中々直ぐには奇麗にならず、何とも疲れました。大きさは共に14号くらいです。

ドレスデンの陶版画

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19世紀のドレスデンの陶版画(18x13,5cm)です。聖母マリアのモチーフは昔から大好きで良いのがあるとつい買ってしまいます。
一昨日ですか夜中にフランスの哲学者、シモーヌ・ヴェイユの本を読んでいたときにふとあることを思ったのです。「恵まれた者」とはどんな人のことを言うのだろうか、と。ここで僕が話題にしている「恵まれた者」とは別の言い方をすると「神に愛されている者」と言う感覚に近い表現かもしれません、もし神様がいれば、の話しですが。だから、恵まれている、とは環境や生れが(他人より)恵まれていると言う意味ではありません。
イギリスで労働者階級の家に生れ、貧しくて高等教育を受けられず、肉体労働に明け暮れている若者が居るとしましょう、彼女はそれでも人生の理不尽さなどについて考えることを止められずに仕事の合間などに文学や哲学の良書に手を伸ばし、色々と考えては暮らしている。働けど生活は大変でお金にも苦労している。そんなに美味しい物や素敵な洋服などに使うお金もない。恐らく自分の境遇を怨んでもいるのかもしれません。
一方、アッパー・ミドルクラスの裕福な家に生れ、プライヴェート・スクールに行き有名大学を卒業して弁護士事務所に勤めている女性が居る、お金に苦労を感じたことなど一度もなく、好きな物はある程度の範囲で何でも手に入れることが出来る。自分の出自である階級を恐らく誇りにも思っているだろうし、彼女の考えや行動規範はそのクラス(階級)の一員であることに因るところが大きい。何事につけ余裕があるので、自分の境遇そのものを疑うことは殆どない。
ちょっと、単純過ぎる状況設定での比較かもしれませんが、普通に考えると後者の女性のほうが「恵まれている」と考えるのが普通です。でも、本当に深い意味で「恵まれている」とはこのような諸条件とはもっと遠いところにあるような気がするのですね。特にシモーヌ・ヴェイユの人生についての本なんかを捲っているとそんな思いが過るのです。恐らく本当の意味で、恵まれている、神に愛される、とは、(神から)考える機会を与えられる、ことではないかと思うのです。人生について深く考える機会を与えられる人、そう言う人こそ、恵まれた人、と呼べるのではないかと。人は失敗したり、酷い状況下に置かれたり、大切なものを奪われたりでもしない限り、深く考えることをしないものです。
前者の境遇と後者の境遇をもし選べるならば誰しも後者を選ぶでしょうし、僕も後者を選ぶと思います。ただ、人の幸福がどの辺りにあるのか、人生の根源的な意味を考えると、人生においての物質的優位性は殆ど無意味にも思えるのです。人は深く考えるときにのみ人である、とも言えるかもしれません。これはとても難しい、一生考えても答えなどは出ない問題だと思います。
富や権力や名声を得ることよりも人生の真の意味はもっと離れたところに一人咲いている花のように、そっと違うところに存している気がするのです。