珍しいカットグラス(その1)

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イギリス1830〜40年のカットグラスです(9,4cmx6,0cm)。とても珍しいものですが、何処が珍しいかと言うと、ガラスの表面全体にカットが施されていて、カットされていないのはフット(足)の上面くらいだけなのです。それと、真四角のフットの裏面に格子模様の深いカットがされていて、これはとても珍しい。ガラスを軽く指で弾くと金属音がしますので、鉛の含有率が高いのですが、ガラスの生地色が真っ白なので古い証拠です。ぱっと見ると19世紀後半にも見えますが、よく観察するとヴィクトリア時代最初期のものです。全体にカットがされたグラスでもヴィクトリア時代初期のものは後半のものに比べると見ててうるさく感じないから不思議です。
この店を始めたのが1998年6月、僕はまだ36歳でした。右も左も分からずビギナーズ・ラックで最初の数年を乗り越え、仕入れも「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」かも、と言う感じでイギリスを闇雲に何処でもうろついている内に朧げに全体の地図が出来て来て、と言う感じでとても非効率的なやりかたでやって来ました。まああの頃は体力もありましたし、昔ながらのアンティークの世界が消えようとし始めていた頃、僕はプロのハシクレとして足を踏み入れた訳です。
それから20年、速いものですね。アンティークを取り囲む環境も大きく変化して、お店に行ってそこの店主と色々話しながら古い物を一つ二つ買って帰る、と言う行為自体が正にもう「アンティーク」となりつつあるという昨今。趣味の店舗での物販に長年携わる方なら誰でもが、物を人の手から手へと売ることのその意味について改めて自問する日々ではないでしょうか、、。
僕自身も今よりももっとゆっくりと古い物を見ながら寛いで頂ける空間を作ろうかと思うこの頃です。今のところ金沢を出るつもりはありませんが、金沢の街中で今よりももっとゆったりとした環境で店作りをしていくのもいいかなと思います。金沢に関しては、どうしてもここ金沢で、と言う気持ちはないですが、東京、京都、大阪、名古屋などから来るときの便利さを考えると今の金沢はかなり「オイシイ場所」に位置している訳で、まあこれからもここに居るつもりです(多分)。少し前に枝垂れ桜の鉢植えを何時も行く花屋さんで買いました、結構大きな奴を。この桜の鉢が似合う場所に次は移転出来たら良いなと思っています。お店も続けていく以上は自分も楽しんだりワクワクしたいし惰性でやるのはつまらないですね。僕も次のステップのワクワクに向けて動いて行きたいと思います。そう言った意味では今までの過去を一度リセットして初心に還ろうと思っています。
まあ凄く簡単に言えば、もっともっと面白い店にしたいです。前のフェルメール、そう言えばつまらなかったよねぇ、と言われるくらいの店にしたいな、と思っています。

ブローチ色々

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イギリスのブローチを三点、全てシルバー製です。両端は百年前の物で、真ん中は元々は1800年頃のバックルだったのをその後ブローチに作り変えたというちょっと変わった物です。左は団扇の形をしていて彫り模様も和風で、まさにジャポニズムです。右の物は馬蹄のモチーフに鳥が飛んでいますので、縁起物ですね。珍しさで言うと三点ともどれもかなり珍しいですが、売れるかと言うと、右の物はモチーフが分かり易いので(鳥のブローチは人気がある)まだ良いのですが、左と真ん中のような個性的な物は売るのが本当に難しいですね。真ん中の物なんかは本当にカッコいいと思いますが、普通の人には人気がないですね。大きさは左から、5,6x3,0cm、2,3x2,3cm、3,1x1,8cm です。
先日友人と別所温泉に行って来ました。その帰りにレンタカーを借りて長野市まで足を伸ばしました。松本は行ったことがありましたが、長野市は始めてで、ご常連の方から時々聞いていた善光寺近くの二階にあるギャラリー、姉妹お二人でされているところが前から気になっていたので訪ねました。とても素敵な女性が営むシックなお店でした。そこで近くの美味しいお蕎麦屋さんを教えて頂き、昼食を取った後、近くのアーケードを徘徊していると古本屋があり、横広の店頭に本やCDなどが雑然と並んでいて、早速物色開始。CDをジャンル分けして置いているようなそうでないような曖昧な感じで、古本屋の店主と言うよりは野菜を一山百円で売ってるほうがピッタリくる感じの60代の店主に、「CDはどういうジャンルで分けて置いてあるんですか・・」と訊くと、「あぁ、ただ置いてあるだけですね・・」と言う素晴らしいお答えが返って来て、こちらは買う気倍増! ECMのレーベルのジャズとクラシックのCDを三枚と岩波文庫を一冊買いました。そのうちの一つが『スティルネス STILLNESS』と言うアルバムで、アルヴォ・ペルト、トーマス・タリス、バッハ、ヒンデミットなどの中世からバロック、現代音楽までを集めた素晴らしいアルバムでした。’89年に出されたものですから随分とまえですね、付録の冊子をめくると最初にこう書かれてありました。
You wish to see; Listen.
Hearing is a step toward Vision.
12世紀のセント・ベルナルド・デ・クレアヴァーと言う聖人の言葉らしいです。
恐らく原文はラテン語(又は中世のフランス語)だと思うのですが、冊子に書かれてある和訳が良くないのでここでは書きません。最初の行は、自分で見る(分かる)ことを望むなら、耳を傾けなさい、くらいの意味で、二行目は恐らく、聴くことはヴィジョンへの道なのである、くらいの意味でしょうが、この大文字の 'Vision' が問題で、多分、啓示的な現れ、もしくは聴覚を超えた深いところに現れる示唆的な幻影のようなものを指すと思うのですが。ここにある 'see' と 'Vision' は共に、単に眼を通して見て理解することを超えたある深い領域を指していると思います。
まあ、解釈は何れにせよ、シックなギャラリー、美味しい蕎麦屋、この深い言葉、と当たりの一日でした。

ブローチ色々

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シルバーの取っ手付きデミタス・カップ

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イギリスの磁器メーカー、Aynsley のデミタスカップ、絵付けはプリントなのに贅沢なスターリング・シルバーの取っ手が付いています。このメーカーは僕の印象ではそんなに高級と言う感じではないですが、こんな物も作っていたのですね。ホテルか高級店のオーダーで作ったのかも知れませんね。シルバーは1926年のバーミンガムのものです。正確に言うとまだアンティークではないですね、百年経っていないので。状態は完璧です。多分未使用に近いでしょう。使われた感じが全く無いです。所謂、イギリス英語で言う、'mint condition' です。
石牟礼道子(いしむれみちこ)さんが少し前に亡くなられましたね。僕は少ししか読んでいませんが、現代の作家では彼女は別格でした。彼女の代表作『苦界浄土』は恐らく今から百年経っても古典として読み継がれているものでしょうし、ノーベル文学賞は本当は彼女みたいな人に与えられるものだと思います。ノーベル賞に関しては、平和と文学の分野に関してはかなり政治的な臭いもしますし、日本語のような言語の場合は確か英訳で審査されているはず。とても不公平ですね。今の日本の作家で百年経っても名前が残っている人って殆どいないんじゃないでしょうか。村上春樹は、あくまでも僕の偏った印象ですが、百年後に学者で彼を研究対象にしている人はいるでしょうが、読んでいる人はほぼいないのではないか、と思います。何故か。ずばり言って、彼の使う言葉は浅くて長い時間の経過の中では持ち堪えられないと思います。彼の言葉がその効力を失い始めたのは震災の年、2011年だと思います。まあでも僕のこの予想も外れるかもしれませんね。インターネットの時代になって以来、文字を「読む」ことの意味が本質的に変わっていますから。作品の中に、ある深いものが内在していても、もしそれを読み取るというか見抜く人が一人も居なくなれば、それは存在しない、と言うことになるわけですから、、。話しが飛んでいるように思われるかもしれませんが、だから僕は情報とか知識とか言う言葉が嫌いですね。
僕も藤原書店から出ているあの分厚い『苦界浄土』を注文して取り寄せて置こうと思います。何時読むかはまあ置いといて。石牟礼さんと言えば彼女を支え続けた歴史家の渡辺京二さん、80代半ばだと思いますが最近でも精力的に素晴らしい本を出されていますよね。凄いことです。年齢を重ねてもブレないと言うか、ハイクオリティなお仕事を続けられる人、そのような人はきっと冷静な自己分析が出来てらっしゃるのではないでしょうか。そんな気がします。

19世紀末のイギリスの水彩画

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水彩画を三枚、どれも19世紀末頃のものです。恐らく当時のイギリスの地方ではそこそこに知られていた画家の手になる物です。額を含めての大きさが凡そ40センチ四方くらいの小さな絵です。数万円から高くても十万円台位で売れる絵を探してイギリス各地をウロウロしています。この絵もそうですが、大体に良い絵は知り合いから買うことが殆どですね、最近は。特に水彩画に興味があり、18、19世紀に活躍したイギリスの水彩画家にもとても興味があり、古本屋に行くとイギリスの水彩画家に関する本を探しますね。西洋絵画ではやはり本流は油絵で、水彩画は亜流というか、まあよく言えば玄人好みかもしれませんが、メインストリームじゃないんですよね。それだけに水彩画を描くことに人生を捧げた昔の画家にはとても興味があります。イギリスの水彩画家専門の画集を買っても載っている人は知らない人ばかり。それに画集もとても少ないようで、この間イギリスで買ったのも展覧会のカタログでした。
上に載せた写真のように地味だけど中々にいい絵は時々ありますね。全体から見ると少ないですけど、ない訳ではなくある所にはある。良い絵を見つけて自分の店に持ち帰っても、意外といい絵ほど売れなかったりする。仕入れるのも難しいし、売るのも難しい。まあ骨董でも何でも面白い物ほどそうかもしれませんね。
先日、国立近代美術館に「熊谷守一展」を観に行きました。それはもの凄い数の作品を集めていて、悪い展示ではありませんでした。例の晩年の彼が描いた蟻の絵も沢山ありまして、多くの人が彼の蟻の絵にも魅入ってました。僕はそれを見終わってから何となく常設展示を観に行くと、三階に速水御舟の掛け軸が静かに掛けられていました。そこに描かれていたのは何と、向かい合う小さな蟻二匹だけ。丸で戦っているかのように触覚を付き合わせる蟻が画面の中央少し右にいるだけ。それだけで、後は「御舟 筆」と書かれて落款の赤色があるだけ。余白と言うより、全白、全てが白の世界で、その小さな拮抗する蟻が放つ強さと言ったらもの凄いんです。暫くそこから動けませんでした。守一さんには悪いけど、こちらのほうが一段も二段も上をいっていますね。御舟のこの絵には天才の匂いがします。でも誰も見ていないんですよこちらは。本当にいい絵の前では人は動けなくなるものですし、いい絵には必ずそれだけのパワーがあるものです。絵が観る人を捕まえて放さないのです。ついでに言いますと、その日上野の博物館で開かれていた「南方熊楠展」にも行きました。展示自体は構成が平面的で至ってつまらなかったのですが、熊楠自筆の日記やメモを沢山見られたことは良かったです。みんな余り言いませんが、熊楠の字はとてもいいですよ。一休の字のように何処か狂の雰囲気があり常人には書けない字ですね。持参のギャラリー・スコープで堪能しました。守一の字も良いですが熊楠の字には及ばないと思います。まあそれは好みの問題もありますが、、でも守一の蟻の絵といい、守一の字といい、何処かもうブランドでもあり、お墨付きなのです。一方、速水御舟の蟻、熊楠の字はまだ自分でそこに行って「発見」しないといけないものなのです。それと前者のほうが後者よりも親しみ易さを備えている、かもしれませんね。近づき易い、私でも分かるかも、そう思わせるところがある。まあそれこそ大きな誤解ですが、そういう誤解をさせてくれる余地がある。
分かり易さ、って重要かもしれませんがそれだけが優先されると文化は育たない。そう思いませんか。