ボナールの画集

Img_7dc3b20cc39420f6fb849a0da2aeffa8
ボナールの画集 (Published in 1966 by Thames and Hudson)

今回は特定の本を紹介するというよりも、この写真の画集に関する「つぶやき」です。
一年程前、イギリスで骨董市に行くと古本屋さんが出店していました。その本の山の中に、このBonnard(ボナール)の画集を見つけ、何気なく広げて絵を見ていくと、とても絵が良くて驚いたのです。若い頃にこの時代の絵はそれなりに沢山観ましたので、自分では「観た」ような気分でいましたし、若い頃はどうしても、深刻ぶって、絵と対峙するような格好でレンブラントやセザンヌやゴッホなどの絵を真剣に観る反面、ボナールの絵にあるような一見何でもないありきたりの日常を切り取った絵の深さが分からなかったんですね、きっと。人生経験の浅い20代の僕には、ごく何気ない日常を描くことの「向こう」に潜むものが見えなかったのです。
最初、この画集をパラパラとめくってはその絵の魅力に心が動いたときに、僕は自分の眼が、歳のせいでセンチメンタルになって来たのかと少し疑いました。でも、その後何度かこの画集をめくり、やはり良いのですよ絵が。彼の何気ない日常の描写の中に悲しみがよく現れていて、心を打つものがあります。スタイルや「悲しみ」の相はかなり違いますが、熊谷守一の晩年の絵なんかも何故か思い出します。
若い頃は、如何にも「人生と格闘しています」という雰囲気の芸術に惹かれ、軽みや明るさの内に在る「悲しさ、暗さ」を見抜けないのです。少なくとも僕はそうでした。まあ、言葉を代えれば、深刻な自分に酔っていた、ということでしょう。ナルシズムですね。だから絵なんか観てないんですよ。
もしお暇がありましたらボナールの絵を発色の良い画集で見てみて下さい。以外と古い画集のほうが色が良かったりしますよね。

素晴らしい評伝作家

Img_49d341985dd01799b8297261f6e195e7
『忘れえぬ声を聴く』(幻戯書房)  黒岩比佐子 著

2010年に52歳の若さで亡くなられた評伝作家が色んな雑誌に寄稿したものを集めたもの。ぼくがこの素晴らしい評伝作家を知ったのは、堺利彦の評伝がきっかけでした。その後、編集者としての国木田独歩に光を当てた本などを読み、これで彼女の本は四冊目。彼女自身、最初の評伝を出したときは百万円の赤字になったらしく、評伝を書くことが、それに投じる時間とエネルギーの膨大さに比べて、金銭的には報われ難いと、書いています。つまり中々「食えない」と。でも、彼女は本書の中でこう述べています、『だからといって、発信せずにいていいのか。気になる過去の人物が、誤解と偏見に満ちたイメージを抱かれているとわかった場合、それを見過ごしていいのか。(中略) あるいは、過去に優れた業績を成し遂げながら、歴史の闇に完全に葬られてしまった人物もいる』そして、彼女は続けて、『そうした人物に光を当て、正当に評価して広く人々に伝えたい、いや、伝えなければならない、といういわば義憤のようなものが、私を評伝執筆へと駆り立てることになった』と書いています。
彼女の本を読んでいると、物書きとしての誠実さが本当に感じられて、このような素晴らしい作家の本がもうこれ以上読めないとはつくづく残念です。今、日本の作家で、義憤に駆り立てられて書いている人がどれだけいるでしょうか。「義憤」という言葉も久しぶりに聞いたような気がします。大体昨今の人間を突き動かすのは、お金や名誉心や権力欲など、「義憤」に動かされて過去の人に光を当てるなんて、少数の方だけだと思います。彼女のように本当に世の中に残っていく本だけを書く人こそ、今の時代に必要だと思います。でも、いい物を作り、世に出しても、中々「食えない」という現実。本屋に平積みされる流行作家の薄っぺらな本を前にすると、「食う、食えない」の問題について考えてしまいます。

余白

Img_a27663fccf6f24ba92cd91cbc178f275
「時の余白に」(みすず書房)  芥川喜好 著

読売新聞の美術記者が2006年から五年間にわたり連載したコラムをみすず書房から本にして出したものです(このコラムは第四土曜日に今も連載中です)。丹阿弥丹波子さんの銅版画の装画も美しいですが、鋤で固い土を掘り起こしていくようなリズムで書かれた文章が素晴らしいです。一句一語がしっかりと根を張っていて言葉が「浮いて」いません。彼の文章中の読点と改行には考え抜かれたもののみが持つ力と必然性が背後に感じられます。文章の「余白」を紙面に美しく浮かび上がらせる、みすず書房のデザインもとても良いです。敢えて言わずにおいた行間の言葉が余白に見てとれるようです。ただ、読み進んでいると僕が個人的に評価しない画家、作家が時に取り上げられているので、その辺りのところは少し除けながらも、文章の魅力に惹かれながら先に読み進みます。実はまだこの本を読了していないのですが、先にここで紹介しておきます。僕はこのような素敵なエッセー集は一つの文章を読むと、その余韻に浸りたいがために本を閉じてしまい、一気に読むということをしません。だから数年越しで読むこともあります。著者ももし機会があればお会いしたい、そんな気持ちになる誠実な筆の魅力です。
この本は昨年('13)の夏に帰省したときに博多の駅ビルの本屋で買いました。それまではこんな素敵な連載記事があることも知りませんでした。そういえば、新聞社の日曜日の書評は読売新聞が面白いですよね。心に静かに染みる文章を読みたい方にはお勧めします。静かさの中に刺もありますが。

石牟礼道子の宇宙

Img_99fbe78a051c806e7761cfa1af44f2b0
「もうひとつのこの世」(弦書房)  渡辺京二 著

作家、石牟礼道子の作品について日本近代史家の渡辺京二さんが書かれた作品集です。去年の新聞の書評でも何度か紹介されていました。僕は石牟礼道子さんの作品も殆ど読まないうちにこれを読み始めました。ただ、いつもそうなのですが、優れた評論はその対象となる作品を読んでいなくても、それ自身が優れた読み物として自立しているので、だいたい楽しんで読めるものです。著者は言います、今から百年も経てば今現在読まれている作家の殆どは忘れ去られるが、彼女の作品の文学的真価が十分に認められ後世に残る、と。「石牟礼さんの作品は何よりもまず、こうした前近代の民の感受しているコスモスの実相を表出したものとして読まれるべき」であり、そのような作家は日本の近代文学史上初めてであったと彼はこの著作の中で述べています。
確かに彼女の文章を読むと、今まで自分の中で蓄積された言葉が邪魔になり、それを壊しながら前へ進まないと「読めない」ところがあります。あと、言葉の産まれてくる場所がとても深くて、まるで異界からの言葉を紡ぐシャーマンのようです。彼女の文章を味わえば味わうほど、現代の作家が読めなくなります。
話は少しずれますが、私見ですが、僕は今の芥川賞など早いところやめて、もう一度仕切り直してもう少しコマーシャリズムから距離を置いたものを作るべきだと思います。殆ど形骸化していて、上辺だけのお祭りですね。あと、新聞の書評もあまりあてになりません。リップ・サービスが多すぎるのと、評する時の切り込み方が浅いものが多いです。例年ノーベル賞候補に挙がる作家の作品に関する書評などはヒドいものです。まあ、所詮ビジネスですから、ビジネスです。
と、グチっぽくなりましたが、皆さん根気よく探せばいい本はちゃんと出ています今でも。ただ、いいものほど目立たないところに落ちているんですよひっそりと。これが問題なのです。半端なものほど本屋で平積みです。
渡辺さんの本はもう一冊近いうちにまた紹介致します。彼は昔熊本で予備校の講師もされていたはずです。「在野」の研究家ですよね、つまりアカデミックの世界からは一定の距離を置かれ続けている。尊敬すべき姿勢です。

蠟燭の画家

Img_cd5dc94110e00243363ea1a98ce8395c
高島野十郎画集 作品と遺稿 (求龍堂)

昔から好きな画家の画集です。明治の中頃生まれで、東大の水産学科を卒業しています。蠟燭の炎を描いた絵がわりと知られています。素晴らしい絵描きですが、絵が暗いせいなのか余り知られていません。この表紙の絵も割れた赤絵の皿を描いている辺り、変わってますね。北方ルネサンス系の絵や岸田劉生などが好みの方は彼の画集を見られてみて下さい。
変な分類かもしれませんが、パリに行くと絵がダメになる画家と、よくなる画家がいるような気がします。私の狭量な私見ですが、ゴッホもパリでは冴えなかったと思います。この高島野十郎も同じくパリで描いた絵は今ひとつのようです。
今のような混迷して後退の様相を呈する時代だからこそ、(私も)無い頭を捻りながらでもしっかりとものを考えて日々生きたいと思っています、今まで以上に。お金も地位も無い人間にとっては、考えることが最大の武器なのではないでしょうか。中途な姿勢で作られたものは人の心に届きません。求道の末に彼が残してくれた絵を観ることで、眼には見えない何かに少しでも私たちが近づけるのではないかと思います。