素晴らしい交響曲

Img_014ec267b43d7c4b7766dfc1c30c44d7
「天職の運命」  武藤洋二著 (みすず書房)
この本を読み終えた後、何とも形容の難しい脱力感を覚えました。スターリン圧政下で芸術家がどう生き抜いたかの克明な記録であり、全体が素晴らしい交響曲として読む者の心に響きます。
本の中には、いつ命が奪われるかも分からない状況で、怯むことなく自分の芸術を貫き、天職を全うしようとした芸術家たちが描かれています。その姿は本当に素晴らしく美しく、読んでいて心が震えます。生きながらえるために他人や仲間の命を「売る」者もいます。著者は本書の終わり近くでこう書いています。
『動物の中で同じ種でありながらこれだけ差がつくのは人間だけである』(487ページ)
読み進みながらこの人間の「差」の有り様に、特に激烈な高潔さで求道する者の姿に、深く心が震え、本を胸元に置いたまま息をゆっくりと吐く。そのようなことが何度もありました。
本当はここにこうやって僕がこの本について書くこと自体が憚られる、それほどの素晴らしい本です。著者は『あとがき』でこう書いています。
『人間の生き方には、芸術作品のように他の人に、後世に伝えたい名作がある。本書にはくりかえしてはならない生き方とならんで鑑賞にあたいする名品があるので、それらが読者の生き方に一筋の光をあてることができれば幸いである』
これから世の中が恐らく進むであろう道を思うとき、この本は「生きる光」を僕らに与えてくれる。そう思わずにはいられないのです。
この本の著者、武藤洋二さんに心からの敬意を表して終わりたいと思います。

尊敬する物書き

Img_6891fc37b05930d9bf35c2f120ac9271
「異郷の季節」(みすず書房) 鈴木道彦 著
今から五年ほど前でしょうか、鈴木道彦さんは全く知らなかったのですが、その頃まだ金沢にあったリブロの本棚に平積みで置かれていたのを目に留めて、買ったのが彼との出会いでした。お会いしたことなどないが、鈴木道彦さんと「さん」を付けていつも言います。尊敬しているからです。この本を始めに、集英社から出ている新書も二冊読みました。この本に出会った頃から僕のテーマは「意識」という一語に集約されていきます。この本自体は彼自身が研究で滞在したフランスの回想記ですが、私にとっては、ものを考えるうえでの道筋を少しだけでも開いてくれたという感じがあり、忘れられない本でもあるし、本当に鈴木さんには感謝しています。集英社の二冊の新書に関してはまた後日書きますが、彼のような素晴らしい物書きの本がもっと多くの人に読まれないのは残念です。最近は新聞の書評にしても話題性のある本を中心に取り上げていて、その点では公平でないと思います。
騙されたと思って買ってみて下さい。若い人がもしちょっと今は難しいと感じたなら、五年か十年寝かせて、自分に相応しいときに読めばいいと思います。ついでに装丁もとても奇麗です。
本当にいいものが目立たないで、生半可なものばかりが跋扈している時代です。本当にいいものをいいと言える人も少なくなりました。やはり今でも日本は「村」なのです。こんな時代だからこそ、一冊の良書と出会うことは尚一層重要だと思います。

ネット・バカ

Img_be3a54536c4dc7827d891e27970a7db9
「ネット・バカ」ニコラス・G・カー著 篠儀直子訳 (青土社)
数年前に読んだ本です。インターネットの出現、使用が私たちの脳にどのような影響を与えるかについて、色んな学問を駆使して書かれた素晴らしい本です。本書の中に「コンピューターに頼って世界を理解するようになれば、われわれの知能のほうこそが、人工知能になってしまうのだ」(309ページ)という一節がある通り、この新しい「道具」を盲信することに警笛を鳴らしていますが、とはいえ余り深刻になり過ぎず、インターネットは良くないから止めましょうとは語らず、どこまでも冷静な分析に徹しているのは好感が持てますし、ユーモアの精神を忘れていないところは、やはり日本人の物書きには余りないことかと。
是非読んで下さい。ある意味恐ろしい本ですが、ネットで何となく時間を潰すくらいなら、これを一ページでもお読み下さい。
僕自身、携帯電話は持っていませんし、ネットは最小限にして、検索は余りしませんし、ネット上のニュースをみるのも、このホームページを立ち上げたときにやめました。
ネットやケイタイの過度の使用は僕たちの精神的自主性を蝕むと思います。去年、神戸で電車に乗っていたら、精神障害を抱えた少年が母と乗って来て、ドアのところに立ち大きな奇声をあげ続けていました。彼のすぐの隣にいた少年は気にもせず携帯をいじり続けていて、ぼくの隣席の若い男性も痩せてやつれた病的な顔つきでひたすら携帯でゲームをしていました。寒々しい光景だったのを今も覚えています。
この「ネット・バカ」は人類にとって極めて新しい「道具」たちとの自分なりの付き合い方を見つけるヒントになるかもしれない良書です。 

在野の碩学

Img_751b06a9d31b8270fb6bf62c9997d3a0
「書物」(岩波文庫) 森銑三・柴田宵曲 著
一年ほど前にこの本を見つけたときに驚いたのを今でも覚えています。森銑三と柴田宵曲の碩学の二人が一緒に本を出しているなんて、柴田宵曲は俳句の本で多少読んでいた程度ですが、二人共に学校はさほど出ていずに、もっぱら独学でその独特の地位を築き上げた在野の碩学でありますし、とにかくこの二人の名前が並んでいるだけで胸躍ったのです。
前半を森銑三が、後半を柴田宵曲がそれぞれ書物について語っておられます。(「います」とは書けない)時に開いたページのところを一つだけ読んで、またしばらくしてもう一つ読むという感じなのですが、いつも思うのが、自分が全く日本語、言葉というものを知らない、ということ。単に、語彙の少なさや読解力の低さというよりは、もうそれは、言葉を越えて、自分の甘さ、いい加減さを突きつけられているようで、(この本を)読んでいると、自分のバカさ加減を知らされるのです。その反面、あー、出来ることなら一ミリでもいいからこのレベルに近づきたい、という憧憬の念も消えないのです。あと、こういう一昔前の日本語に触れていると、言葉そのものは消耗品だなとつくづく思います。時間の経過とともに、言葉は変わり、昔の言葉で書かれた本は読み難くなり、やがて誰も振り向かなくなります。それでも、言葉の向こう側にある「意識」を求めて、人は古い文章を読み継ぎます。古い本の中に埋まっている研ぎ澄まされた「意識」を求めて。でも、言葉そのものは「意識」を載せるための道具でしかありません。かなり乱暴な物言いですが、人が求めるのは言葉そのものではないということです。
あと、この本の後書きは中村真一郎です。これもまた素晴らしいです。多分死ぬまでこの本に飽きるということは、僕はないと思います。自分もこのような本を味わえる年になって来たというのは、嬉しいことです。
何故、このような素晴らしい本が復刻にならないのでしょうか。不思議です。このような本をタブレットで読むのはある種の暴力だと思います。是非、出来れば単行本で読みたいです。

クンデラと広津

Img_1676f85cdf21131811b4051978e83a38
Img_9494b1cf7dfb653503fc8622e1c68c2b
本当は「ネット・バカ」という本を紹介しようと二階の部屋に行ったところ、暑くて汚くてどこに本があるか分からず退散。代わりにつかんでおりて来たのがこの二冊。ミラン・クンデラの「存在の耐えられない軽さ」(集英社文庫)と広津和郎の「同時代の作家たち」(岩浪文庫)。
クンデラのこの本は10年以上前に失恋して、心身ともに何故か酷かったときに貪るように読みました。そういった意味で忘れられない本です。クンデラはとても好きな作家ですが日本ではさほど人気がないですね、ロンドンの地下鉄などでは若い女性が読んでいるのを見かけますが。クンデラがノーベル文学賞を貰ってないのを思うと、改めていい加減な賞だなと思います。カズオ・イシグロがインタヴューでノーベル賞を欲しいかと聞かれて、あれを貰うとみんないい物を書けなくなるので、欲しいかどうか分からないという内容のことを言ってました。
広津和郎のこの本で近松秋江の魅力を知りました。広津さんは文章も素晴らしいですが、こういった今は殆ど読まれなくなった作家に出会えるのはとても貴重です。近松秋江は図書館にでも行かないと読めそうにありませんが。広津さんは数年前に室生犀星の調べ物を図書館でしていて、それから読むようになりました。・・図書館はあまり行きません。眠くなるので。第一みんなが同じことをしている場所は得意じゃないのです。