オールド・デカンター(その1)

Img_a722ba33ccda5640b6834ac609af2cad
Img_9e750488aceca69c21e1f5525b5845dc
Img_4aa66e7fb34a786fbf04d1b20913d294
イギリス18世紀前半から半ばに作られたデカンターです(高さ25,5㌢、底部口径8,7㌢)。下のほうにカット、胴のところにグラヴィールが施されています。300年近く前の物なので今まで仕入れたデカンターで一番古いですね、それに一番奇麗です。上品ですね、これぞイギリス18世紀の気品と色気を備えていて毅然としています。イギリス18世紀の物に宿る「色気」は、どこまでも抑制が利いていて上品、観る者に媚びると言うことが全く、本当に全くないのです。だから近寄りがたくもあり、分かり難くもあります。モーツァルトの音楽が18世紀に産まれたように、「18世紀」と言う時代にはその後に続く時代には失われてない「気品」があります。産業革命の隆盛と共に、芸術作品や工芸品に内在する「糸の張り」のごときものが、弛んでくるのです。一見華やいでいるように見える物は実は「弛緩」でもあるのです。
タンブラーもこのくらいの美しさを備えると、何も入れないで眺めているだけで惚れ惚れします。

スペインの水指し

Img_49d31ece8c9375dc95163b692397b191
Img_2009561963860678e0c7e86128c53934
Img_0600b65b2b1d573e961574c16bed7748
18世紀後半のスペインの水差し、というよりジャグ(高さ約12センチ、口径約8センチ)。数年前にオランダで仕入れました。オランダ人ほど外国の物を上手く取り入れてオランダの風景の中にさり気なく同化させてしまう人たちは少ないと思います。だいぶ前の事。アムステルダムの運河沿いのギャラリー前を歩いていると、大きな写真が額に入れられ堂々とこちらを向いて飾られています。真っ赤な着物を着た若い日本人の女性が股を少しだけ開き気味に、猫顔で斜め上を見上げるようにして椅子に座っています。腰から下は着物が叩けて全てがそのまま覗いています。それが何故か全く嫌らしくなく、運河沿いの静かな通りの雰囲気を乱すどころか、その全てを肯定しているような飾り方がとてもオランダ的で、「異物」を上手く同化させていました。確かアラーキーの写真だったと思います。
こういう小さな水差しは、花を入れるのには小さいし、花が描かれているので、花を活けると「花」が重なりくどくなりますし、やはり飾って眺めるのがいいのでしょうか。色絵も大雑把で平面的にしか描かれていませんが、それでも魅力があります。でも、何かの用途に使ってみたい気持ちにもなります。これにお酒を入れてみたらどうだろう、とか。
日本人は「ものを見せる」のが未だ余り得意ではないようです。タブーとされているもの、皆が避けて通るものを敢えて前面に出してきて、誰にでも見えるところにドーンと置く。その存在自体、それがそこに置かれたことがもうトリックスターの要素を備えているような、「見せ方」です。恐らく日本が広場の文化ではなく、路地の文化であったことなども、関係あるかもしれません。この国がもっと垢の抜けた場所になるといいなと思っていますが、どこか最近後退気味ですよね。クール・ジャパンなんて言い出した頃から「怪しい」ですよね。

水牛の角のタンブラー(続き)

Img_984236680c03bb2d756a00385e34d54e
Img_eb596fbcf34d4b3c7f0537d3fb60823f
Img_83f954a084e7cbc98524029c8846b299
(下に掲載している記事の続きです)タンブラーが奇麗で、写真を三枚に絞ることが出来ず追加の写真を載せました。美しい茶碗のように、違った角度から眺めると表情が変わります。どこが「表」と言うこともなくどこから眺めても本当に美しいのです。このタンブラーを眺めているとイギリス18世紀特有の色気を感じます。

水牛の角のタンブラー

Img_14eaa8890c49e03576e6e7bd4ce6d60b
Img_3583b3e78b3272ae19af6d6d2ab98015
Img_7f5bb6ef61975f07d7151e23acc7726d
18世紀後半の水牛の角で作られたタンブラーというかコップです。もちろんイギリス製(高さ8,8センチ×口径6,8センチ)です。18世紀のものは19世紀のものと比べると、全体の形や特に飲み口のエッジの美しさが優れています。もっと裕福な人が所有したものだと縁に銀を巻いたものもありますが、僕はこのほうが好きです。角の反り具合、エッジの表情、角の模様が自然に美しく、それに経年の小さな瑕が幾つも入り、それすらもが模様の一部のように表面に沈み込んでいます。これで何も飲まなくても、手に取り間近に眺めているだけで安らぐものがあります。
これを書きながら、今日はヘンデルのピアノソナタを聞いています。昔の録音で、リヒテルとアンドレイ・ガブリーロフが交互に弾いてます。どちらも素晴らしく、古いものを眺めるのに邪魔になりません。
こうやってイギリスの18世紀のものを観ていると、朝鮮の骨董や和骨董の寂びたものに通じる美しさがありますね。「和」、「洋」と区別するのが無意味なくらい互いに通じ合うものがあります。日本には茶道という芸術がある弊害で、時に骨董品の世界も奇妙なヒエラルキーがありますが、イギリスでは渋いものは以外と昔の庶民の日常品の中に見つけることが出来ます。

オーク材のパネル

Img_52cfa2c2c40b029162f815c433bc746d
Img_a7612eeb86601f4800e075b895aeb536
Img_263ff785fbc9b007d8b517630406fb55
18世紀のオーク材のパネル(33センチ×13,5センチ)で、左右対称のレリーフが施されているものが、2枚あります。板の厚みは1センチ程度。もとは家具か何かに嵌め込まれていたものでしょう。ずいぶん前に仕入れましたが、たまに飾っていても余り見る人もいないので最近は埋もれるようにして、棚の陰に隠れていますが、こうやって改めて見ると良いものですね。この板のように考えて工夫しないと使いにくいものは、美しくても売れにくいです。バーなどのお手洗いのドアなどに嵌め込んでいたらカッコいいんですがね・・。板の表面全体に細い横線が入っていますが、やはり古いものは観ててうるさく感じませんね。これが19世紀のものだと、煩雑な印象を与えますよね。その細い彫り線も均一なように見えて、実は強弱のリズムが自然界に近い呼吸であり、それを僕たちは美しいと感じるのでしょう。骨董を観て「美しい」と感じるその一因は、時代と時代の間にある「差」ですから。
最近は閉店後に奥の部屋から流れる音楽を聴きながらこうやって文を書くのが、自分にとって落ち着くひと時となりつつあります。